考えすぎる人ほど、理路整然と曲がるんですよ

8時半 すぎ 曇り
9時半 すぎ 図書カ@工業倶楽部 のち キャピトル@お菓子
やや 迷い のち ミッドタウン 外苑東 経由 で
謎 スープカレー¥650 帰路 やや 降雨。 
8時 すぎ GC@赤飯(半額) 他

借金を踏み倒して財政再建した薩摩藩 調所広郷 
江戸時代後期に行われた改革というと、水野忠邦が行った幕府の天保の改革をイメージするかもしれないが、ここで取り上げるのは薩摩藩の改革である。薩摩藩は、長州藩と並び明治維新の原動力になったが、それは財政再建という困難な課題を克服したからこそできた。
薩摩藩を財政難に陥れた原因の一つである、幕府による薩摩いじめを象徴するのが宝暦治水事件だ。
宝暦4年(1754)、幕府は薩摩藩に3河川の治水工事を命じた。薩摩藩は、幕府のあからさまな嫌がらせに反発する向きが多かったが、受け入れて工事に着手した。工事は困難を極めたが、どうにか完了した。総奉行平田靱負は工費が膨らんだ責任を取って、割腹自殺した。
薩摩藩の藩財政が窮乏を極めていたこの時登場したのが、調所広郷である。調所は安永5年(1776)に生まれた。茶道坊主だった調所家を継いだわけであり、身分は低かった。調所を登用したのは、二十五代薩摩藩島津重豪で、調所を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。調所は、文政10年(1827)に財政改革主任となり、財政再建に着手した。
調所が行ったのは、借金を踏み倒すことだった。「250年の年賦返済、および無利子償還とする」などと勝手に決めて、商人に一方的に通達した。調所は、借金を踏み倒す一方で、税収向上のため、物産の確保に力を入れた。薩摩藩の名産・黒砂糖の専売強化を図るため、奄美三島への管理を徹底し、次いで琉球を通した清国との貿易を盛んにした。
薩摩藩天保11年(1840)、財政再建をほぼ完了した。調所が改革に着手して以来、13年後のことだった。だが調所は幕府に密貿易の罪を糾弾され、嘉永元年(1848)、服毒自殺した。享年73であった。