もう、いやぽ・・・

また、また、また、また、またかいっー!
組織の変更はいーかげんにして下さい。

当時の極東は、イギリスとロシアの権益がぶつかる場所であった。
イギリスは日本を戦略上の駒のひとつとして用いることを決めた。
イギリスは「日本はイギリスのものだ」と宣言したのである。
これによって日本は「独立」した。

1954年、アメリカが他に先駆けて日本を国際潮流に引き入れる
ことができたのは、イギリスとフランスがロシアの地中海進出を
阻止するために、クリミア戦争でトルコ帝国を支援するのに忙殺
されていたからだ。
日本が独立のための勉強をしたいという意思をみせるや、イギリスは
すぐ指導計画を立てた。ロシアに対抗するため、
1893年(原文のママ)の青木・キンバリー条約
(訳注=正式には日英通商航海条約)で始まる日英同盟は、
1921年にアメリカの圧力で解消されるまで
イギリスの極東政策の基盤となった。日本を小「大国」として
台頭させた大きな力はこの同盟だった。
日清戦争が継続中の1894年、アメリカは治外法権をはじめとする
すべての特権(特定関税制限を除く)を放棄する新条約に関し
日本と交渉し、日本を完全な主権国家として認めた。
日清戦争終結させるための会談では、中国と日本にそれぞれ
アメリカ人顧問がついていた。会談終了後、日本の天皇米大統領
親書を送り、東京と北京の米代表の協力に感謝している。

日露戦争では、米政府は日本を強力に支持していた。
セオドア・ルーズベルト大統領はロシアを説き、ニューハンプシャー州
ポーツマスで日本と交渉する労をとった。ルーズベルト大統領は
日本が勝っている段階で、しかも日本の不十分な戦備が底をつく前に
戦争を終わらせようとしたのだ。ポーツマス会議の日本代表の一人
金子(賢太郎)伯爵によると、ルーズベルト大統領は、スエズ運河
東からカムチャッカの西までを範囲とするアジアを対象として
モンロー・ドクトリン」を宣言するよう日本に勧めたという。
西洋列強の租借地と植民地を除いて、中国での門戸開放政策を
維持していこうというものだった。

タイトル:アメリカの鏡・日本  新版
著者:ヘレン・ミアーズ, 伊藤 延司 訳
単行本: 429 p ; サイズ(cm): 20
出版社: 角川学芸出版 ; ISBN: 4046519681 ; 新版 (2005/06/01)